2024年10月号(162号)-4
「祝園弾薬庫」がわが家の近くにあった
奈良産直会員 堀田美恵子
(祝園ミサイル弾薬庫問題を考える奈良の会)
わが家は奈良県と京都府の境、高の原駅近くにあります。住み始めて祝園弾薬庫が、4~5㎞のところにあることを知りました。でもそれは戦争中の遺跡のようなところだと思い込んでいました。高の原、祝園(ほうその)には「けいはんな学研都市」として国会図書館や企業の研究所などがあり、住宅や商業施設が整っていく様子を見てきました。ところが、昨年「安保三文書」「防衛費43兆円」などの言葉とともに、祝園弾薬庫への予算計上の情報が舞い込んできました。祝園弾薬庫がある精華町の町議さんの話を聞くことになり、昨年度の国の予算には調査費が計上され、本年度予算には祝園弾薬庫の8棟の火薬庫の増床と整備に102億円の予算がついていることを知りました。祝園弾薬庫は1939年に枚方にあった陸軍の火薬庫が爆発して大きな被害が出たために、枚方に近い精華町への移転がなされたのだそうです。
弾薬庫の遺跡どころではない、現在も自衛隊の分屯地であり、今回の予算によって、トマホークミサイルや敵基地攻撃能力を持つミサイルを貯蔵する施設となる予算が計上されたのだと言います。その計画にとても驚きましたが、私たち奈良市民はほとんど存在を知りません。奈良市民だけではなく、多くの精華町民も知らない。弾薬庫を中心に地図を見ると10㎞圏内には生駒市、木津川市、京田辺市があります。精華町の皆さんの情報のなかから1960年には日米安保条約に伴って祝園弾薬庫が米軍から陸上自衛隊に移管される際に、住民の運動によって「土地・貯蔵施設の拡張はしない、現在の貯蔵能力以上の貯蔵はしない、増加の場合は町側と事前協議する」といった確認書を町長、防衛庁と交わしていたことが分かりました。しかし、住民への説明は行われていません。事の重大さを知ったひとたちの発信で3月20日には精華町で「京都・祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク」の設立集会が行われました。
精華町を取り巻く自治体の京田辺市、奈良市、生駒市、枚方市、京都市,交野市、大東市、城陽市、木津川市などの住人が参加し、地域での広報活動をしなくてはということになりました。現在、私たちは「祝園ミサイル弾薬庫問題を考える奈良の会」を立ち上げ、まず確認書に基づく住民説明会を開くように防衛省への申し入れを行うことから運動を始めています。住民説明会を求める署名は下記QRコードからお入りください。
3回連載-里山の、生活空間と隣接する本と学びの場
TOGO BOOKS nomadik 大谷政弘
初めまして、とはいえ自己紹介が難しい。ありていに「ブックカフェ」といえば難なく通じるが、私はいつも自分たちの場所を指すとき、「本と食のあり合う場所」と身もふたもない表現で呼ぶ。「本」とは書籍と限らない。昨今、主流となりつつある「電源を失えば消える情報」ではない、手触りのある表現体や文化的な事柄を指す。「食」というのは私たちの生存や身体に直結するシンプルな食体験を指していて、思考や言葉にまでその滋養や影響力は行き渡っている。私は能勢の生まれでも育ちでもなく、後に結婚するパートナーの生まれ育った町として能勢と出会った。彼女は素朴に自分の故郷を愛しており、そこで見た景色、風音や暮らし、食の恵みの記憶がその愛郷心を育てていた。漠然と田舎の生活に惹かれつつも、昔の風景が失われつつあった自分の地元に愛着が持てずにいた私に、子育てを能勢でするという夫婦の選択は自然な道だった。
初めて妻の実家に泊まったときのこと。緊張していたせいか、朝早くに目が覚めた私はしんとした空気のなか、リビング裏の大きな本棚の前に立ち、図書館や本屋で感じるような静かな興奮のなか、時間を過ごした。午前5時、徐々に明るくなりつつある廊下で、ふと手にとった新潮文庫の宮沢賢治詩集を開いたときに感じた「特別な瞬間」が、実はこの「本と食のあり合う場所」の原点のひとつになっている。濃密な暮らしの空間に開かれる本。そこにしか現れない光と奥行き、そして起動する学び。生活空間と隣接する本と学びの場。地元で寺子屋を開塾した曽曽曽祖父の話を聞いて育った私は、果たしてそんなものが生業(なりわい)になるのか、何度も思考実験しながら、ここにたどり着いた。紆余曲折をへて、野間の大けやき近くの築40年の民家をリノベーションし、「本と食」の自分たちが表現できるあらゆるものを詰め込んで、3年前の2021年10月、私たちは船出した。
編集委員からの一言
少し前のことですが、長年、私たちに海苔などを届けていただいてきた川丈さんが今年7月をもって引退・廃業されました。海苔やいりこ、年末の田作りという大切ながら地味な商品の取扱いで、かつ、それほど頻繁にやり取りしていたわけではなかったので、最後ぐらいはキチンとご挨拶しておきたいと思い、兵庫県新温泉町まで代表の安本さん夫妻を訪ねました。
改めてよつ葉とのお付き合いの歴史を伺うと、40年以上に及ぶとのこと。当時、よつ葉は直接トラックで鳥取まで鮮魚・干物などを買いつけに行っていて、途中で立ち寄る新温泉町でカニや鮮魚を扱う魚屋さんを通じて紹介されたのがきっかけだったそうです。以来、品質の悪いものは届けられない、との思いから、人知れずさまざまな苦労をされてきたとのこと。なかでも年末の田作りに見合うカタクチイワシを求めて、山口県から富山県までの水揚げの様子を聞きながら仕入れるので、赤字になってしまった年もあったそうです。
こんな真面目な皆さんによつ葉は支えられてきたのだと、改めて感じ入りました。同時に、身が引き締まりました。
(ひこばえ 福井 浩)