2024年3月号(155号)-3
震災後の分断と軋轢(あつれき)のなかで
~「未来会議」という対話の場づくり
菅波香織(未来会議)
きっかけは芋煮が出ない“芋煮会”
地震と津波の大きな被害に遭った上に、双葉郡からの避難者を多く受けいれたいわき市では、「被災者は帰れ」と役所に落書きがされるなど、さまざまな分断的な状況やいわゆる“軋轢”といわれる状況が起きていた。
そんななか、2013年から「未来会議」という対話の場づくりを始めることとなった。きっかけは2012年に成立した「原発事故子ども被災者支援法(以下「支援法」とする)」で住民の意向聞き取りのための、芋煮が出ない“芋煮会”だった。そこで行われたワールドカフェのルールは、①相手の話を否定しないこと、②本当の思いを語ること。
いわき市でも開催されたその場では、一人ひとりがこれまで語りたくても語れなかった体験や苦労、悲しみ、複雑な思いが吐露される時間となり、ワールドカフェの席替えの声かけにも参加者がなかなか席を立たないというような熱気に包まれた。自分とは異なる属性、立場の人の、全く異なる体験や想いを聞き、それぞれが「そんなこともあったのだ」という気づきも得ていた。このような場こそが、今私たちが暮らす地域で必要ではないかと感じた人たちの有志で、未来会議をスタートさせた。(図1)
未来会議の事務局メンバーは当初から、いわき在住の方のみならず、双葉郡から避難してきた方や支援の方など、多様なメンバーであった。未来会議は「多様性こそ価値がある」と考え、誰もが来たいときに集まれる港のような場として、団体としての方向性を持たないようにし、結論を出さない会議、一人ひとりの気づきを得る場として展開されていった。対話を通して、「自分と違う意見を聞くことに耐えられるようになった」また「そんなに辛い体験をしていたとは全く知らなかった」、「報道だけでは分からなかった」、「その体験からすればそう考えるのは当然だと思った」などの感想が多く聞かれるようになった。
私たちが暮らす社会の隣にある「この世界」
未来会議の対話ワークショップから、区域再編がされたばかりの「旧警戒区域に行ってみっぺ」というツアーが立ち上がった。案内者から「あのときのまま、ではなく、あのときよりひどい」と表現される自宅や職場に土足で上がらせていただいた。小動物の糞が落ち、植物が枯れ、ドレッシングがボトルごと食いちぎられ散乱した光景があった。私たちが暮らす社会の隣に「この世界」があること、国が人々に強制していることは「避難」という表現は不適切で、実際に行われているのは、そこに住んでいた人々の「生活のすべてを奪うこと」だと、五感で感じる体験だった。
2015年に行った「イチエフツアー」では、全面マスクと防護服で作業する方の“日常”の姿がそこにはあった。私たち視察者はお客様なので、「高線量のところには行かない」との説明がなされ、「こちら側」と「あちら側」に勝手に線が引かれ、「安全」なところから恩恵だけを受けようとしている多数の「私たち」がいるような気がした。高線量廃棄物の行き先も決まってはいない。多くの現場の人たちの活動と完成していた重要免震棟のおかげで、なんとか「今のレベル」の事故に収まっているということを痛感させられた。
それぞれがあまりにも違う体験を持ち、異なる価値観で生きている。気持ちが分かるなんてことはおごりだ。ただ共感はできなくても、共有したい。隣人として話を聴く、共に在る、一緒に考える、ということが大事なのではないか。いわゆる処理水の海洋放出方針の決定がなされた2021年、『未来会議 presents 処理水「しゃべってみよう」(仮)』ではある参加者の方から「〈廃炉〉の話をしたのだけど、それは愛する家族の話であり、自分の人生の話であり、未来の話でした」との感想があった。
自分の意見を変えるためにするのが対話
コロナの報道で、「正しく恐れる」との言葉が出てきたとき、震災後の放射能の影響に対しての表現と同様、強い違和感があった。正しさを持ち出すことで、誤りがあることとなり、無用な対立が生まれてしまわないか。そもそも「正しさ」とはとても危ういものではないか。二項対立の誘惑に陥ることを意識的に避けて、対話を続けていきたい。「解」のない難問だからこそ、考え方の違いや受け止めの違いに、新たな発見の芽が潜んでいるかもしれない。「違い」を戦い合わせるのではなく、「違い」に価値があると信じ、「なぜ違うのか?」に着目し続け、「違い」から新たな選択肢を生み出していきたい。まさに群盲が力を合わせれば、象の全体像を捉えられるように(一人ひとりの力は及ばずとも、多様な人の力が合わさることにより集合知に至ることができる)。自分の意見を変えるためにするのが対話である。
私たちが目指す地域のあり方は、「尊重」がキーワードであると感じる。普段からの、例えば家庭内での親と子の、あるいはパートナーとの関わりや、小さなコミュニティ、職場内での関わり、全ての関係性において異なる他者を尊重し、異なることに価値をおけるか。私たちはこれまで逆の方向に教育されてきてしまったのかもしれない。多様性の尊重は簡単なことではない。異なることは対立的な場面が起きるということでもある。それでも誰一人置き去りにしない、誰かに負担を押しつけない、誰もが自分らしく生きることができる地域をつくるのだと決意し、お互いに痛みを引き受け合うことも必要だと思う。そのために関係性を変える思想法でもありテクニックでもある対話を、小さな場で繰り返し、訓練する場づくりを続けていきたいと思う。