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よつ葉ホームデリバリー

2024年4月号(156号)-3

 

 

 

大阪・関西万博の暴力
~メガイベント開発における収奪の正当化

 

原口 剛(神戸大学准教授)

 

自然破壊・生活破壊という犠牲のうえに

 

いま関西では、万博開催に向けた都市開発が猛威を振るっている。しかし、無謀としか言いようのない開催プランの内実が明らかになるにつれ、反対の声は強くなるばかりだ。私もまた万博に反対する者の一人であるし、その声の広がりを心強く感じる。けれど、歯がゆさを感じることも確かだ。万博を巡る問題は大阪の例外的な事情であるかのように、あまりに狭く捉えられていないだろうか。私は万博への問いには世界に共通する課題が潜んでいるはずだし、抗いを通じてよそへの連帯の地平を開くことを目指すべきだと思う。
そのような地平へと踏みだすために、2020(21)年の東京五輪の爪痕について考えてみたい。その代表的な建築物である新国立競技場には、いくつもの暴力が重ね合わされている。ひとつには人間への暴力である。競技場建設は明治公園全体の改造と拡張を伴い、その過程によって都営住宅は解体され、長年暮らしてきた住民は移転を強いられた。さらに公園に住まう野宿者たちは、警察力を動員した暴力によって追い払われ、支援者は陰湿な弾圧にさらされたのだった。
また新国立競技場は自然への暴力の産物でもあった。広く報じられているように、五輪開発の一環である明治神宮外苑再開発では1000本近くの樹木が伐採の危機にさらされている。だが、それだけではない。「杜のスタジアム」と称するスタジアムの建設には、ボルネオ島の森林を伐採した木材が大量に使用された。しかも森林を糧に生きる現地の住民やNGOの訴えによれば、それらの木材は違法に伐採されたものであった。つまり新国立競技場は熱帯林の略奪や現地住民の生活破壊という犠牲のうえに建設されたのである。
では最後に、五輪が過ぎ去ったいま、この巨大競技場はどうなっているのか。報道によれば国立競技場は維持費だけで毎年24億円かかり、政府や東京都は民間の引き取り手を探すのに必死なのだという。かくも膨大な維持費を恒常的に捻出しようと思えば、スポーツイベントなりコンサートなりの儲けの上がるイベントを上演しつづけなければならないだろう。これはとてつもなく異常な事態ではないだろうか。建物やインフラとはそれを使いたいと願う人びとがいて、その必要のために造られるのが筋であるはずだ。ところがここでは巨大競技場の維持という経済的な必要性が、人間の動員を求めるのだ。こうしてこの巨大インフラは完成されたのちも人間の<生>を絡めとり、拘束する。

 

いったい誰のための開発なのか

 

 

このようにメガイベント開発の問題性を挙げていくほどに、「いったい誰のための開発なのか」という問いは、ますます重いものとなる。重要なのはこの手の開発がいまや、利益を生みだすための世界的な手法と化している事実である。五輪開発について言えば、巨大スタジアム建設はゼネコンにとってうまみのある事業であった。そればかりでなく、多様な人々の無償利用に開かれていた公園を、オフィスビルやタワーマンションへと一変させるプロジェクトの全体が、デベロッパーや利害関係者にとって格好のビジネスチャンスになった。いま、こうした共有地の収奪が、世界各地で繰り返されている。なおかつ重要なことに五輪や万博などのメガイベントは、収奪を正当化するための手法として活用される。メガイベントを成功させるためなら無謀な開発も許されるに違いないという目論見が、まかり通ってしまっているのだ。
つまり、表向きは五輪や万博のためとされる開発プロジェクトは、ほとんどの場合は「はじめに開発ありき」である。その事実は関西万博を見ればなおさら明らかである。「万博のため」といわれる人工島の開発が、実のところカジノ建設の手段に過ぎないことは、すでに広く報じられている。だが問題はそれだけにとどまらない。いま万博会場地とされている夢洲の開発プロジェクトの始まりは、1980年代末に始動した「テクノポート大阪」計画にさかのぼる。そこで掲げられたのは都市が排出する大量の廃棄物や土砂を海に埋め立て、人工島を作ろうという構想だった。大阪湾や瀬戸内海の環境に計り知れないダメージを与えるこの開発計画は、2008年開催予定の夏季五輪を誘致し、選手 つまり、表向きは五輪や万博のためとされる開発プロジェクトは、ほとんどの場合は「はじめに開発ありき」である。その事実は関西万博を見ればなおさら明らかである。「万博のため」といわれる人工島の開発が、実のところカジノ建設の手段に過ぎないことは、すでに広く報じられている。だが問題はそれだけにとどまらない。いま万博会場地とされている夢洲の開発プロジェクトの始まりは、1980年代末に始動した「テクノポート大阪」計画にさかのぼる。そこで掲げられたのは都市が排出する大量の廃棄物や土砂を海に埋め立て、人工島を作ろうという構想だった。大阪湾や瀬戸内海の環境に計り知れないダメージを与えるこの開発計画は、2008年開催予定の夏季五輪を誘致し、選手村を作るという名目のもと正当化された。かつて五輪会場とされていた人工島が、いまは万博会場とされているわけだ。この成り行きが示すように、おそらく推進者にとってイベントの中身はたいして重要ではない。時代をこえて一貫するのは、海を埋め立て不動産を作りだすという、開発への意志である。

 

 

自然との連帯をどのように取り戻すのか

 

 重要なことに、ここでも私たちは「収奪」というキーワードに出くわす。公園が共有地であるのと同じように、海もまた誰のものでもない空間だ。ところがその自然空間を埋め立て、不動産として売りに出すならば、一転してそれは利潤を生み出す道具と化す。新たに作りだされる土地であるから、公園の開発とは異なり、立ち退かされる人間は不在かもしれない。だが忘れてはならないのは、この場合、海という自然が踏みにじられ、回復できないほどに傷つけられることだ。2020(21)年の東京五輪で問われ、いま再び大阪・関西万博で問われているのは、そうした開発の暴力である。私たちはまず、そのような収奪が世界各地の民衆と土地を脅かしている暴力と地続きであることを学ばなければならない。そして、その暴力とは「人間への暴力」であると同時に「自然への暴力」でもあることを、真剣に捉えなければならない。おなじ暴力を目の前にして、自然との連帯をどのように取り戻すことができるだろうか。そのための道筋を、どう見出していけるだろうか。万博への抗いには、そのような問いがかけられている。

 

五輪会場となった新国立競技場(杜のスタジアム)