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よつ葉ホームデリバリー

2024年7月号(159号)-3

能登半島に学んだ魚食文化

 

鷲尾圭司(水産大学校理事長)

 

 

圧力に負けない漁業を描くこと

 

 能登半島地震は過疎化の進んだ条件不利地域を襲った。さらに地形の激変によって、従来からの農漁業の再生に深刻なダメージを及ぼしている。筆者は沿岸漁業の応援団を自称しているように、漁業者の持つ世界観と研究者や行政の間に立って通訳の役割を担おうとしてきた。その修業時代に能登半島で深い学びを得てきた。
 ひとつは歴史家の網野善彦(1928-2004)が示した中世の奥能登の暮らしであり、農業中心であった日本の別の顔として日本海の交流路の中心に位置した漁業と交易による生き方であった。これは東京一極集中に偏りつづける日本社会の価値観に対して、別の地方それぞれの価値を見直す生き方を考えるヒントともいえる。
 もうひとつは志賀町富来にある西海漁業協同組合の組合長だった川辺茂さんの生き方である。川辺さんは『魚は人間の手では作れない』(樹心社、1984)という著作のなかで、原発で苦しむ漁民の立場から原発問題や沿岸漁業の課題などを勉強し、漁協を通した協同運動の重要性と過疎地域の生き方を問いかけられた。その実践の現れとして「魚の産直」による漁業現場と都市消費者の関係性を深める提案をされていた。
 筆者は1980年ごろには京都大学漁業災害研究グループに所属して若狭の原発群の放射能汚染調査や温排水調査に取り組んできたが、京都の消費者としても能登半島の漁業者たちの活動にも関心を寄せていた。そこで京都市内での反原発集会の折に集まった消費者有志で「京都さかなの会」をつくることになった。
 京都と能登半島の西海漁協をつなぐには人手がいることから院生であった筆者が運び屋を担うことになり、数回の産直活動に取り組んだ。生産者側からすれば「産地直売り」で消費者側からすれば「産地直買い」である。当初は中間流通を省いた「安い」が魅力だったが、お互いの顔が見えるようになると、さまざまな周辺事情が分かってきた。生産現場では獲れるときはよいが、不漁のときには買い求めに来た客を気の毒に思うことや、悩みの種である原発問題が重くのしかかっていた。一方の消費側では海や魚の理解と調理力が欠けていて都市での暮らしが産地とかけ離れており、従来の接点であった魚屋さんが激減していることなど、都市側の消費力の減退が深刻だと思い至った。
 その後、開発側の圧力が強まり、西海漁協もついには海洋調査に同意し、志賀原発が建設されることとなり、さかなの会の活動も断念することになった。この経験から筆者は「圧力に負けない漁業を描くことが重要」という教訓を得て、沿岸漁業応援団となるべく活動を続けることになった。
 能登半島で今後心配なことは、復旧の遅れもあるが、再々地震に見舞われることから離村が進み、住民不在の地区に「核廃棄物処分場」が押しつけられることだ。やはり原発利権に群がる政治を抑え、自然との共生を目指す能登の生業(なりわい)を支える消費者側の応援が必要だし、能登の食文化を受け取る都市の暮らしの再考と再生も大切だろう。
 能登の魚食文化を特徴づけるのは、限られた資源を持続的に利用し、暮らしに豊かさをもたらそうという姿勢で、「歩み寄りと分かち合い」と「知足(足るを知る)」が心配りされている点だと教えられた。それは「能登は優しや土までも」と言い伝えられるように、近所と仲良く助け合わないと生き続けられない能登の厳しさも表している。

 

 

気候風土に見合った地場産を取り戻す

 

 

 話は変わって福島第一原発から放射性物質を含む大量の水を海に放出する「処理汚染水の海洋放出」を巡って、中国側の日本産海産物の輸入停止措置への反発もあり、大きな話題になっている。政府は原発推進を再開し、核燃料サイクルを動かすための地ならしとして「処理水放流」を強行している。
 政府や東電はIAEA(国際原子力機関)という国際機関が認めていると言うが、認められているのは放流マニュアルの妥当性だけで、実際の運用も含めて「安全だ」と容認しているわけではない。というのは、日本の役所仕事のレベルに信頼が置けないからだ。
 問題はアルプス処理という汚染水の処理では、トリチウムだけではなく、プルトニウムをはじめごく微量でも問題のある核種が完全には取り除けないことだ。「無視できる(無視したい)」レベルになっているだけだ。また、放流当初は注目されることから安全度の高いタンクが選ばれて放流されるから、いくら検査しても問題は見つからない。しかし、やがては「やばい」レベルのタンクも処理しなければならなくなり、3年先ぐらいから問題が生じるだろう。というのは社会保険庁やマイナ問題に見られるように、役所では2、3年ごとに担当者の異動があって無責任体制になる。このため永続的な監視が欠かせない。
 福島沖の水産物について政府は「安全だ」と言っているが、それは「急性障害」のことばかりで、すぐに目に見える被害は出ないだろうという希望的観測にすぎない。抜けているのは「晩発性障害」で、遺伝子損傷など年月がたってから現れてくる被害は「エビデンス(裏づけ)がない」と無視している。
 また、中国による日本産海産物の輸入停止措置については、外交交渉のカードでしかないだろう。中国の反応は日本がアメリカと一緒になって先端技術や半導体貿易などにさまざまな圧力を加えてきたことへの反発に他ならない。日本の水産物輸出は輸入の1/10程度なので、中国の対応を機会に対中ナショナリズムをあおっている話題といえる。
 コロナ禍や戦争の時代に入り、グローバル化に壁が生じてきている現状では、国産品の自給率向上を再び指向する機会だろう。それは資本主義のフロー(流動性)の経済を目指す「選択と集中」ではなく、社会的共通資本となる「土づくり」などストックの経済を再生することで将来の資源を確保し、地域ごとの気候風土に見合ったきめ細かな地場産を取り戻すことが重要だ。すでに「能登の里山里海」(2011)が世界農業遺産に認定された内容と合致する。これは共同体の再生と並行して、各地の沿岸農漁業や能登半島の暮らしの再興にもつながることだろう。

 

 

 

鷲尾圭司さん(兵庫県林崎漁港にて)