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よつ葉ホームデリバリー

2026年2月号(178号)-4

 

 

よつばの学校報告

 

講座「お米を売る・買うから

支え合う関係に」感想

 

わたしたちのお米のこと

 

淀川産直会員 大西うらら 

 

 

  2025年、お米の価格高騰が世間を賑わせた。私は「世のなかがお米づくりについて考えて、生産現場に少しでも関心が向かないだろうか」という期待を持った。その思いは現在進行形だけど、世のなかはまだ浸透していないと感じている。私はお米の生産者を心から尊敬している。理由は単純で、私自身はお米をつくることができないから。だからこそ生産者に対価を払うのは当然だと思っている。「自給10円」という言葉が話題になった。揶揄(やゆ)するような反応を目にし、強い違和感を覚えた。この人たちはお米を食べないのだろうか。もし食べているなら、なぜ敬意を払うことすらできないのか。私にはどうしても理解できなかった。
 
価格の話に回収されるお米やスマート農業などの技術開発、あるいは「輸入すればいい」という考え方には不安を覚える。世界に目を向けると武力行使や戦争が各地で起き、安定してどの国から輸入できるのか、誰にも見通せないのが現実ではないだろうか。お米は単なる商品ではないし、田んぼだけでつくられているわけではない。山、川、土、生きもの…といった人間本位ではないものと対峙しながらつくられているお米がなんと尊いものであるか、私は感じずにはいられない。「お米が高い」と声高に言うだけで、生産者の営みを想像した人はどれほどいるのだろうか。一次産業をないがしろにしてきたわたしたちは、すでに「きちんと考えなければならない地点」まできているはずなのに、なぜこれほどまでに無関心、あるいは低関心でいられるのだろうか。
 
山を手入れし、川が流れ、草を刈り、さまざまな生物が宿る。その循環のなかでようやくお米は育っていく。こうした営みは到底一人で成し遂げられるものではない。だから集落があったし、五穀豊穣を祝う祭りなどの文化的側面が重要だったのだと思う。昨年、小豆島を訪れた際に、6つの八幡神社で毎年3日間にわたって行われる伝統的な祭りを見学した。米俵を象徴した座布団のような形をした太鼓台を奉納するのが特徴で「えいしゃーしゃーげー!」という掛け声とともに神様の近くまで持ち上げ、五穀豊穣への祈りと感謝を捧げる。子どもからお年寄りまで一緒になって参加する光景が非常に印象的だった。おにぎり、おかき、お餅、米麹、米粉、祭り…。わたしたちの暮らしには、いつもお米がある。だからこそ、お米のことを、わたしたちごととして考えていきたい。

 

 

 

50周年 その先へ

生産者リレーエッセイ
 

「農福同根」の実践

 

アグロス胡麻郷  橋本 昭+チャッピー

 

 

 
 関西よつ葉連絡会が50周年という大きな節目を迎えられたことに、心より敬意と祝意を表します。半世紀にわたり、働くこと、生きること、ともに在ることを地域のなかで問いつづけてきた歩みは、多くの現場に静かで確かな影響を与えてきました。
 
私たちアグロス胡麻郷は京都府南丹市胡麻郷の田畑で米や地場野菜を育てながら、人とともに働く日々を福祉事業を加えて、重ねています。その現場で近年、はっきりと実感するようになったのは、農業と福祉は本来別のものではなく、同じ根から生まれた営みだということです。人が自然の循環のなかで役割を持ち、食を生み、地域のなかで居場所を得ること―それ自体が、農であり、同時に福祉でもあります。
 
野菜づくりの仕事は、多様な力を必要とします。播く人、育てる人、収穫する人、選別し、袋詰めし、届ける人。それぞれの「できること」が重なり合って初めて、一袋の野菜が生まれます。そこでは支援する側とされる側という区分は意味を持たず、ともに担う存在として関係が結ばれていきます。この風景こそ、関西よつ葉連絡会が50年かけて築いてきた実践と深く通じるものではないかと感じています。
 
アグロスは農業を福祉の手段にするのでも、福祉を農業の付け足しにするのでもなく、両者が同じ根から立ち上がる「農福同根」の実践を大切にしていこうと考えています。それは完成した答えではなく、「モノとしての有機」から現場のなかで繰り返し確かめなおされる「自分」にとっての“気づき”の連続です。
 
関西よつ葉連絡会の50周年を起点にこの農福同根の気づきが、次の10周年、さらにその先へと静かに、しかし確かに続いていくことを願っています。私たちアグロスもまた、地場野菜という足元の営みを通して、その流れの一端を担い続けていきたいと考えています。

 

 

 

編集委員からの一言

 

 

 

  7年ぐらい関わってきた居住も兼ねたシェアスペースの「本町エスコーラ」の契約が3月で切れることになった。鋳物工場跡地を利用してメンバーでリノベーションしてつくった。地域コミュニティとしてにDIYなどをコミュニケーションのツールとし、コンポストや雨水利用のタンクを設置したりしていた。コロナ禍以前は多くの人たちが集まり、イベントが盛んに行われていたが、コロナ禍を経て、イベントもなかなかできなくなった。
 
その時期と重なるようにそこのメンバーが結婚をして家族を持つようにもなり、数人の子どもも住まう住居空間として変遷していった。手が足りないときはお互いの子どもを見たり、一緒に遊んだりしてみんなで育てているような雰囲気になり、イベントをしていた庭は菜園が拡がって、自給をするようになった。
 
コロナ禍が大きな変化の起因と考えると社会の縮図のようなところでもあったと思う。その場からたくさんのひととの出会いがあった。また、そうしたひとつの場の移り変わりに当事者として関われたことは今後、ぼくの人生にとっても大切な体験として残っていくと思う。

(編集部 矢板 進)