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よつ葉ホームデリバリー

2025年9月号(173号)-2

 

 

日本とインドネシアの架け橋

 

 

■トレテス(兵庫県宝塚市)

元残留日本兵の「日本とインドネシアの架け橋になりたい」という想いを引きついだところから始まって30年。インドネシアの農家を支え、工場では現地に住む人々の雇用を生み、現地での支援、交流を続けながら活動を進めている。

 


中川さん

 

 わたくしの祖父と母がインドネシアを訪ねたとき、元残留日本兵であった石井正治さんの〝日本とインドネシアの架け橋になりたい〟という想いに共鳴し、「乾燥糸こんにゃく ぷるんぷあん」を生みだしてトレテスを創業したのは1995年でした。今年で30年目を迎えました。関西よつ葉連絡会には創業間もないときからのお付き合いで30年の歳月をともに歩んできました。
 
1995年は阪神淡路大震災が発生した年でした。その後、東日本大震災や新型コロナなどさまざまなことが起こりました。わたしたちを取り巻く環境は創業当時とは様変わりしました。それは生産国であるインドネシアも同様です。インドネシアはこの30年で大きな経済成長を遂げ、人口は3億人規模にまで増え、活気ある国になりました。物価は30年前から比べると10倍以上になり、国民の暮らしは格段によくなりました。
 
ぷるんぷあんの原料になるムカゴこんにゃく芋は、かつて雑草扱いされていましたが、現在では50世帯の農家の生計を支えるまでになりました。日本もインドネシアもその30年の間に、「ぷるんぷあん」の製造、乾燥設備なども老朽化してきました。この先50年、さらに長い年月、〝日本とインドネシアの架け橋〟として「ぷるんぷあん」を供給し続けるために、この度、製造ラインの大規模なリニューアルをいたしました。
 
製造の大部分を手作業に頼っていた製造工程の一部を機械化しました。手作業のため多くの量を一度に製造できなかったため、本年秋より形状を変更します。戸惑われる会員さんもいらっしゃるかもしれません。カタチは変わりますが、「ぷりっ」とした食感や味しみの良さなど、特徴はそのまま変わりません。今後もよろしくお願いします。    (中川 啓)

 

 

 

 

“日本の農業を守ろう”

 

 

■松合食品(熊本県宇城市)

大豆の発酵食品を中心に、医食同源の考えに基づく、身体に良い食品を創業より変わらずつくっている。原料になる大豆・麦・米は、熊本県の契約農家、そして自社農場で栽培されたものを使い、日本の農業を守ることをスローガンに歩みつづけている。

 

 

 

スタッフの皆さん自社農場での稲刈り体験会

 

 

 松合食品は温暖な気候と良質な水に恵まれた宇城市松合にて、江戸文政に「阿波屋」の屋号で創業。1952年に現在の会社を設立しました。守りつづけてきたのは〝医食同源〟の考えに基づく安全で身体に良い食品づくりです。原料にも厳しいこだわりを持ち、設備も自社開発し、日本古来の発酵食品である醤油・味噌・酢を麹より一貫生産しております。
 
生産に伴う副産物(醤油粕)は自社農場の肥料や畜産農家の飼料に、排水はバイオ処理できれいな水にして海に返しています。このこだわりの姿勢を崩すことなく「お客さまの健康と幸福」を最優先に考え、資源をリユース・リサイクルすることにより環境に優しい経営に努めております。
 
また、松合食品では〝日本の農業を守ろう〟をスローガンに味噌の大豆はすべて熊本県で採れたもの、特にこだわった醤油・味噌・酢には阿蘇の契約無農薬、化学肥料不使用大豆(栽培期間中)と菊池の有機農家の方々の栽培期間中、無農薬・化学肥料不使用米、麦を原料としています。約15年ほど前からは阿蘇市波野の自社農場にて同様の仕様の大豆の生産も始めました。大豆の他にも米・麦・にんにく・甘夏・梅などを、同様の仕様で自社農場で栽培しております。
 
このような長年の取り組みが評価され、熊本県農業コンクール大会において栄えある「農業貢献賞」を受賞させていただき、社員一同の大きな励みになっております。今なお守りつづける伝統の味わいに新しい時代の香りを添えて、こだわりの製品づくりを続けてまいります。

(秋永雅也)

 

 

 

 

ちょっと寄ってみ。

 

 

子どもを不安のなかで育てている親がいる

 

京都やましろ保養の家

 

 「京都やましろ保養の家」の前でメンバーの写真

 

 

 「保養」という言葉から皆さんは何をイメージされますか? 原発事故により放出された放射能の影響を受ける地域に住んでいる人たちが一定期間、放射能の影響を受けない地域で生活することです。クリーンな空気を吸い、汚染されていない食品を摂取することで放射能による健康への影響を低減させ、健康回復につながることがチェルノブイリ原発事故後の取り組みによって実証されています。
 
 福島県などから京都に避難している子どもを対象に「避難者子ども健康相談会」(2013年~)を開催してきたメンバーから、「家族やグループが通年利用できる保養の家をつくろう」という声があがり、幸い京都府精華町にある家を利用できることになりました。利用者の交通費補助の予算確保に向けてカンパを募り、2019年7月に「京都やましろ保養の家」を開設しました。
 
 しかし少しずつ利用者が増えてきた頃にコロナ禍に。終息後もなかなか利用者がなく、「保養自体が必要とされなくなってきているのか?」と感じていた2024年5月、新聞に「福島の子へ 細る「保養」財政難・高齢化・相次ぐ活動休止」の記事が。その後、次々と申込みが入るようになりました。利用者さんから、「保養サイト(保養先の情報が掲載されている)」が突然なくなり困っている。原発事故後に産まれた子どもが難病になり、あのとき避難しなかった自分を責めてしまう。住んでいるところでは放射能の話はできない等々、切実な声を聞きました。避難できずに今もこれからも放射能に汚染された地で生活を続けざるをえない方々の声が、関西に届いていないのではないか。私たちも「原発事故時の母子の保養に視点を置いたままではなかったか」と強く感じています。原発事故後に産まれた子どもを不安のなかで育てている親がいる。そんなご家族が安らげる場所を維持していくこと、そして福島第一原発事故を風化させない情報発信の役割も、今後充実させていきたいと思っています。
 
 QRコードから「京都やましろ保養の家」Webサイトをのぞいてください。私たちの活動を是非、支えていただきますよう皆さんのご協力をよろしくお願いいたします。

       (奈良産直会員 梅谷敦子)