2026年4月号(181号)-2
「テッラマードレ・ジャパン
2025 in水俣」報告
大澤菜穂子
(からたち)

今年は水俣病が公に確認されて70年を迎える節目の年。一方、70年という月日が流れ、今日の山積するさまざまな問題に埋もれて水俣病は世の中から存在がなくなりつつある、と思うことが以前より多くなりました。
そんなことを考えていたときに誘いを受けた企画が「テッラマードレ・ジャパンin水俣」(2025年11月1日~3日開催)というイベントでした。テッラマードレとはイタリア語で「母なる大地」という意味。イタリアではこのテッラマードレと題したイベントが2年に一度トリノという場所で開催されています。世界中から農業を営むひと、畜産、漁業、そして食に携わるひとが集まる世界規模の生産者会議。「その日本版を水俣でやろう!」と動きだした水俣のお茶農家から私にも声がかかりました。そして東京に拠点を置く日本スローフード協会のメンバーとともにこのイベントの準備が始まりました。
私がこのイベントに関わった理由は、公式確認から70年たった今でも、やっぱり水俣と人々が出会うきっかけをつくりたかった。少し誤解を招く表現かもしれませんが、「水俣病」が入口ではなく「食」が水俣への入口でもいいな、と思いました。その方が、それぞれの生活と地続きのこととして身近に感じられるのではないか。そこから水俣へ目を向けてほしかった。そして食がテーマであっても、かつて食と人と自然が分断されたこの水俣で、食を通じてこれからの世界をどんなふうにしたいか、考え、語り動き始める時間をつくることに意義を感じました。水俣は再生への道のりで、食を通じてさまざまな実践がされてきた場所でもあります。イベントは心が震えるぐらい「楽しい」「おいしい」「かっこいい」という要素も入れたいと思いました。資金はなかったけど、熱量がありました。「ひとりで叶えるのがアメリカンドリーム。みんなで叶えるのがミナマタンドリーム」が合言葉でした。おかげさまで多くの方の力をいただき、すばらしい3日間を終えることができました。
◆みかんの香りに包まれて
ここで「テッラマードレ・ジャパン in水俣」の3日間の様子を振り返ってみます。
1日目はつくり手が語り合う生産者会議。国内外から400人の人が集いました。オープニングは水俣の自然の映像で始まり、その後友人のDJが登場。大漁旗に埋め尽くされた会場で、その日のために友人のDJがつくってくれた「We Are Nature」を歌いました。そして地元実行委員がみかんの収穫袋をぶらさげて、会場の参加者にみかんを配布。みんなでみかんを食べる。会場はみかんの香りに包まれその日のプログラムが始まりました。各部屋ではさまざまなプログラムが開催されました。「流域とともに生きる―アグロエコロジーが示す再生の道」「土地を読む―わたしの地元学」。私は「スローフードとツーリズム―〈味わう旅〉から地域の未来をつなぐ」の進行を行いました。夜は地元小学生のハイヤ節の踊りでスタート。海の暮らしの風景や自然への慈(いつく)しみが込められた子どもたちの踊りに、涙する人々が続出しました。その後は郷土料理を味わう大夕食会になりました。
2日目は全国から集まった52店舗のマルシェ(参加者3000人)。つくる人と食べる人がつながる時間。あちらこちらで歓声が上がり、踊りや歌も聞こえ、青空の下のみかんコンテナの座談会はどれも盛況。水俣病を学ぶウォーキングツアーも好評でした。
3日目は国内外から来た人向けの、オプショナルツアー5コース。水俣の海コース・里山コース・天野製茶園コース・水俣の歴史コース・津奈木アートコースと、この地域を感じてもらう時間をつくりました。またこの期間中、希望者は地元の農家さんの家に泊まらせてもらうホームステイ企画も。とにかくこの3日間、やりたいことを全部やり尽くした。「水俣で学べたことが本当に大きい」「こんな出会いがあるとは思わなかった」そんな言葉があちらこちらから聞こえてきました。
◆水俣の再生には食を通じた
さまざまな実践があった
今、水俣は甘夏の出荷最盛期を迎えています。水俣の再生への道のりには、食を通じてさまざまな実践がされてきたと前述しましたが、この甘夏もそのひとつです。水俣病が発生して魚が売れなくなり、海から陸に上がった漁師でもある水俣病患者の無農薬の甘夏づくり。「他人に毒を盛られたものは他人に毒を盛らない」。当時、農薬をやめ外見が決していいとは言えない甘夏は、「がさくれみかん」と呼ばれていました。それをいち早く取り扱いをしてくださったのは、関西よつ葉連絡会の皆さんでした。その甘夏一玉一玉が結んでくれた関西の皆さまとの長き縁に、改めて深い感慨を覚えます。
なにか水俣病患者の力になりたいと、一年の予定で関西から移住した私の両親と、無農薬で甘夏栽培をする漁師たちとの出会いから52年の歳月が水俣で流れました。最後まで水俣弁が上手に話せなかった京都出身の母は、昨年水俣で亡くなりました。「私十分やりました、後悔ないです」。最期はそんな顔でした。80歳を超えた父もなんとか元気でいてくれています。水俣で生まれ育った私は弟夫婦と、みかんの接ぎ木からもらった名前「からたち」で今日も水俣の甘夏を全国に届けています。接ぎ木「からたち」のように、甘夏を通して、これからも水俣の過去と未来をたくさんの人たちにつないでいけたらと思っています。

水俣を学ぶウォーキングツアー

