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よつ葉ホームデリバリー

2026年8月号(184号)-3

 

 戦争論議を血の通ったものにするために

― 自衛官の尊厳と憲法9条

 

駒村圭吾(慶應義塾大学法学部教授)

 

●「為政者は戦場の返り血を浴びない」

 

 

 アルベール・カミュというフランスの作家は、かつて『反抗的人間』(1951年)において、不条理な世界が押しつける無意味の重圧を受け入れつつ、それに抗しようとする人間の「反抗」を描き出しました。カミュは暴走化しやすい「革命」ではなく、日常の局所的な「反抗」による社会変革を目指したのです。ただ、ときに「反抗」にも暴力は随伴する。カミュは反抗するものが万が一殺人を犯すとしても、それは反抗するもの自身の死をもって代償すべきだと説き、人間の尊厳の等価性を厳格に求めたのです。
 
このカミュの思想を、政治哲学者のマイケル・ウォルツァーが「死の覚悟のない者に人は殺せない」というふうに言い換えました(『戦争を論ずる』(風行社、2008年)31頁)。この視点から、ウォルツァーは空爆や有毒ガス散布のような「遠く離れたところからなされるリスクなき介入」に対して批判します。不穏当な言い方になってしまいますが、自分も殺されるかもしれないという状況に自らを置くことによって、初めて他者を殺すことの最低限の倫理が保たれると考えたのでしょう。
 
血を浴びうる距離で行われる決闘や合戦と違い、現代の戦争は海洋にひそむ原子力潜水艦が発進させる巡航ミサイル攻撃、クラスター弾や燃料気化爆弾による広域制圧、無人機やドローンによる空爆が行われるようになり、それが落下される先では兵士と民間人などは識別されるわけではありません。攻撃をしかける国に住む多くの国民には爆音さえも届きません。血塗られているはずの戦争は、血流や死が可視化されずに、「仮想化」されることになったのです。カミュは言っています。「血はもはや目立たない。血は現在の為政者たちの顏にまで跳ね返らない」と(『カミュ全集6』(1973年、新潮社)255頁)。
 
兵士の殺戮も戦死も、罪のない市民の犠牲も、小学校や病院の誤爆も、「数」として処理されるだけです。仮想化によって戦争のリアリティはSF的・オンラインゲーム的なそれに近づきます。インターネットやSNS、そしてメタバースを通じて仮想空間に没入しつづけている私たちは、仮想と現実の区別がつきにくくなっています。どうにか、戦争のリアリティをきちんと私たちの手元に置いておかないといけません。

 

 

●構造的少数者としての兵士

 

 

 

意外に思うかもしれませんが、自衛官はある意味で構造的少数者です。民主主義は公正な政治的競争のルールが機能していることを前提に、多数派が決定した政策を少数派が新たな政治的競争を通じて覆し、民主的決定を刷新することで成り立っています。昨日の少数派も明日の多数派になり得る、そういう政治的ゲームが健全に駆動しているのが民主主義の本来の姿です。しかし、このような政治的競争から構造的に排除されている人たちがいます。男尊女卑の強い国では女性、LGBTQ+の当事者、政治どころか生きていくことで精一杯な貧困層、障がい者、等々。このような構造的少数者に兵士、つまりわが国では自衛官も入るのではないでしょうか。
 
そもそも、いったん戦争が開始されると、権限集中や戦時緊急事態により、通常の民主的プロセスは大きく後退し、国民みんなが政治的批判の回路から排除されるでしょう。とりわけ、兵士(日本では自衛官)は、命令によって(自分自身と他者の)生命を犠牲にするリスクを厳格に負わされます。しかも、有事はもちろん平時においても、文民統制(注1)の徹底から政治プロセスへの関与は大きく制限される立場にあります。特に、自衛官は日本の特殊事情から、軍事の専門家としての評価や尊敬を必ずしも受けず、戦争に対する忌避意識や軍隊に対する嫌悪感から、社会的偏見にさらされやすい立場にすらあります。つまり、兵士/自衛官は、厳格な上命下服の状況に置かれ、戦時平時ともに政治的決定から構造的に遠ざけられている“少数者”です。
 
だとすれば、ありうる自衛官の「声」に真摯に耳を傾けるべきでしょう。構造的少数者としての兵士は、≪生命を賭す以上、せめて戦う戦争の種類は選びたい≫と考え、戦争を自国防衛に限定し、日本の主権が及びにくい同盟国の戦争には関与できないとして、集団的自衛権の保持については消極的に出る可能性があるかもしれません。また、兵士は≪生命を賭す以上、名誉ある死を≫と考えるでしょう。戦場において≪殺し、殺される≫状況に置かれ、人を殺傷しても通常刑法の論理で裁かれたり、あるいは法的評価の空白地に置かれることなく、戦時国際法による正当な統制を受け得るような仕組みを用意する必要があります。さらに、上官から“犯罪行為”を命じられても峻拒(しゅんきょ)できる抗命権(抗命義務)の憲法化も考えられていいでしょう。無念の戦死を遂げ、貴重な生命を犠牲にしたにもかかわらず、不正な戦争に加担した不正な兵士 、正しい戦争を犯罪行為で汚した極悪人、といった烙印を押されたら、それこそ死んでも死にきれないのではないか。
 
自衛官が職責は重く、その覚悟は命のやりとりである以上、その職務にはある種の尊厳や純粋性が宿っています。そのような自衛隊を、特定の政党の党勢浮揚に利用することは絶対にあってはなりません。制服を着用して官職を明らかにして、自民党の党大会で国歌を斉唱した自衛官がいました。政治的中立性を損なうあからさまな政治利用です。本来このような利用こそ、自衛隊そして防衛省は断固として拒否すべきでした。血を流し、返り血を浴びる職責を担っている方たちの尊厳や純粋性を、決して返り血を浴びることのない為政者が利用することはまともな政軍関係のイロハのイを破壊する所業です。私は以上のことを自衛隊のために述べています。

(注1)・・・軍隊に対する民主的な政治の優先を意味し、職業軍人でなく、選挙によって選ばれた国民の代表者が軍隊の指揮・統制を行う原則のこと

5/29「戦争と改憲に反対! 立ち上がる市民

@京都四条河原町~四条烏丸」での

スタンディングアピール会場にて

参加者からは人権の観点からの発信があった